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筆者が読んだ本の読書日記。書評ではなく、著書の内容から、自らの体験や時代背景を読み解くことを目指します。筆者の備忘録でもあります。
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513VGFxfB3L._SL500_AA240_.jpg穂積陳重『法窓夜話』岩波新書

明治初期、日本が西洋の文物を取り入れるにあたって一番苦労したのは「言葉」だった、ヨーロッパの概念を一つひとつ漢語に翻訳する作業は並大抵でない。「憲法」という言葉にしても定着するまで20年近い日々を必要とした。

穂積は漢学者の家に生まれ、イギリスとドイツに留学し、建学間もない帝大法学部講師になったが、明治14年まで授業はすべて「英語」だったと書いている。「ようやく日本語で授業ができるようになったのは明治14年」だったのだそうだ。

51UI4lhNr6L._SL500_AA240_.jpgまたConstitutionというフランス語を「憲法」という漢字にあてたのは、箕作麟祥だった。明治6年のことである。「国法」、「国制」、「国体」、「朝綱」など、使用されていたさまざまな訳語の一つにすぎなかったから、まだ定着はしたとはいえなかった。大学の授業ではたぶんConstitutionで通っていたのだろう。

明治政府は明治16年、伊藤博文を「憲法取調」という役職につけた。政府として初めて「憲法」という漢字を使ったから、それからConstitutionは日本語で「憲法」と定着したらしい。

江戸時代の「憲法」という語はいまでいう六法全書のようなものを意味していた。
ちなみに福澤諭吉は慶應2年の著書『西洋事業』で「アメリカ合衆国のConstitution」のことは「律例」と訳している。

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